Are you the publisher? Claim or contact us about this channel


Embed this content in your HTML

Search

Report adult content:

click to rate:

Account: (login)

More Channels


Channel Catalog


Channel Description:

毎日の生活の中で見たこと、聞いたこと、感じたこと、思いついたこと等々書き留めています (コメント大歓迎デス・・・・・)

older | 1 | .... | 20 | 21 | (Page 22)

    0 0


    ≪健康管理に歩くことが見直されてきています。どんどん歩きましょう。≫
    いきいき健康ウォーク

    コース
    近鉄新祝園駅 9:34発(京都行き急行乗車~竹田乗り換え 10:29市営地下鉄国際会館駅 着)
    市営地下鉄国際会館駅→宝が池公園(昼食)→妙満寺(拝観)→圓通寺(拝観無し)→深泥池→北山駅(解散・14時ごろ)
    歩行:約8.0km 約13,000歩

    宝が池公園(老若男女が水辺に憩う)
    江戸時代に造られた、周囲約1.8kmの人工池。宝が池公園として桜並木の散歩道や貸しボートなどが整備され、市民の憩いの場になっている。
    わんちゃん的にこの池は2011年に鳥撮りに行ってるんですこちら
    またここは桜の名所でもあります。ここで、お弁当タイムでした。

    キレイ

    ↑ 撮影:Aさん ↓









    妙満寺(インド風仏塔が建つ「雪の庭」の寺)
    インドのブッダガヤ大塔を模した仏舎利塔がそびえる顕本法華宗(けんぽんほっけしゅう)の総本山。
    妙満寺HP




    ↑ 撮影:Aさん 






    安珍・清姫伝説の鐘(道成寺由来の霊鐘)


    「鐘に恨みは数々ござる」で知られる紀州道成寺の霊話は長唄、歌舞伎等の芸能に取り入れられています。その物語に縁あるこの鐘は数奇な運命で当山に伝わりました。
    正平14年(1359)3月31日、道成寺では安珍・清姫の伝説以来、永く失われていた鐘を再鋳し鐘供養を盛大に営みました。すると、その席に一人の白拍子が現われ、舞い終わると鐘は落下し、白拍子は蛇身に変わり日高川へと姿を消してしまいます。その後、近隣に災厄が続いたため、清姫のたたりと恐れられた鐘は山林に捨て去られました。
    それから200年あまり経った天正年間、その話を聞いた「秀吉根来攻め(1585)」の大将・仙石権兵衛が鐘を掘り起こし京都に持ち帰りました。そして、時の妙満寺貫首日殷大僧正の法華経による供養で怨念を解かれ、鳴音美しい霊鐘となったと伝えられます。 (由来詳細はこちら)
    当山では、例年の春に鐘供養を営み安珍・清姫の霊を慰めており、道成寺を演じる芸能人はこの鐘に芸道精進を祈ります。

    仏舎利大塔

    ↑ 撮影:Aさん ↓



    圓通寺の門前


    「不許酒肉五辛入門(しゅにくごしんにゅうもんにいらず)」の石碑が建っております。
    いわゆる結界石で・・・酒も肉も、にんにくなどニオイのきついものを食すのを禁じるということ。酒や臭の強い物を持ち込んでは修行になりません、心構えを持ってお寺にお入りください。・・・
    つまり五辛(ゴジン)とは
    『梵網經』に説かれる四十八軽戒の第四食五辛戒の中に
    「若佛子。不得食五辛。大蒜革葱慈葱蘭葱興蕖。是五種一切食中不得食。若故食者。犯輕垢罪」よりで、葫(にんにく)・韮(にら)・薤(らっきょう)・葱(ねぎ)・蘭葱(ひる)。

    妙満寺から圓通寺の前を通り深泥池へと歩きました。
    深泥池(みぞろがいけ):浮島が浮かぶ伝説の池
    この池には氷期のとされる ミツガシワが自生しています。
    他にジュンサイ、ヒメコウホネ、タヌキモなど珍しい水生植物(天然記念物)が見られる。
    周囲約1.5Kmの池。大蛇伝説など、魔界、心霊スポットとしても有名。
    わんちゃん的にはここにも何年か前に鳥撮りに来たことがありました。
    地下鉄北山方面に向かって歩きまもなく解散でした。
    「ちょっとお茶しよか?」ッということになり、すぐ近くの「進々堂」で反省会となりました。
    「おっ!いきいき健康ウォークのスタッフさんも焼き立てパンを・・・」でした。



    文中の解説は「いきいき健康ウォーク」スタッフさん手作りのパンフレットから部分的に引用させていただいたのもあります。

    マンホール


    京都市の紋章は、昭和35年(1960年)1月1日に制定されたもので「京」の字を図案化したものに御所車を配し、金色と古都を象徴する紫色の2色を用いています。 
    略章は、明治24年(1891年)10月2日に制定された京都市き章を、 紋章の制定に伴い略章として用いているものです。

    0 0
  • 12/04/18--15:25: 紅葉だより PART1
  • わんちゃん宛にA子さんから旬のお便り届きました

    第一報
    10月初旬「姥ケ平紅葉」が届きました

    ↓ 姥ケ平の少し上の方

    2018年初の紅葉だよりです。

    第二報
    10月下旬「夜叉ケ池」




    ここは夜叉ケ岳登山への途中なの、福井と岐阜の県境にある、標高1,100mの地点にある池なんだけど、この池を上から見ようと思ってシンドイ道を登って撮った写真はどうかしら?



    池の左上、一番奥が「三周ヶ岳」池の向かって右の稜線を登るんだけど、キレイに見えているけどね、北陸地方特有の笹薮の道を行くことになるのよ、タイヘンなのよね、今回は止めにしたわ。

    第三報11月25日(日)光台遊歩道

    わんちゃんキレイでしょ。

    我が家から歩いてちょっとのところ、天気が良かったので紅葉撮ってみたの、何色ものグラデーションがステキよね、青空がとてもよく似合ってるでしょ?わんちゃんも天気のいい日に見に来てね。

    第四報11月30日(金)

    天理に用事があってね、銀杏がスッゴイキレイかったの思わず写メ。
    時間があったのでちょっと、石上神宮までお散歩したわ。

    わんちゃんにプレゼント

    わんちゃん編
    11月10日(土)
     井手町大正池に行ってきました。
    バンガローがあったりそこでバーベキューができたり「楽しいとこやなぁ」っと思いました。

    池の周りを散歩してみました、

    逆光に紅葉がとてもキレイでした。

    同じ紅葉の木も対岸から撮ると順光になって全然違って見えました。
    紅葉だより続く


    0 0

    「そうだ京都、行こう」こちら
    というJR東海のキャンペーンポスターがあります。
    今年は京田辺市の一休寺です。
    何年か前に「宝筐院」があったそうです、永観堂も東福寺もね。
    わんちゃん的には2011年に「宝筐院」行ってます。
    こちら
    もういっぺん宝筐院に行ってみたく思った。
    そうだそこまで行くのならお墓参りもしてこよう。
    嵯峨野の釈迦堂清凉寺内嵯峨薬師寺から歩いてお墓(六尊坊)まで、そしてお墓守りさんとこへ供花をいただきに・・・
    お墓守さんのお宅から、すぐのところに、いつも息子たちがカメラ構えてる山陰線の陸橋がある、橋の上からふと線路の西方向を見るとトロッコ嵐山駅にトロッコ列車が停車中、スワッ!っとカメラを構えた。





    お墓のエリアはとても静かでした、平日なのでお詣りする人もわんちゃんぐらい。
    年末・春秋のお彼岸・お盆・石楠花忌とお参りしますが、季節外れのお参りに、お墓の中のメンバーもさぞやビックリ仰天。
    「よお おこしやすぅ」とでも・・・
    お墓参りを終えて宝筐院の方へ歩いて・・・
    宝筐院(こちら)は釈迦堂おもての西南角辺りに位置します

    山門を入るとスゴイッと、言う言葉以外に何がありましょうか・・・の心境。





    木造十一面千手観世音菩薩立像










    お墓

    向かって右  小楠公:楠木正行(くすのき まさつら)
    向かって左  足利義詮
        
    クチナシの実                 ヤノネボンテンカ


    宝筐院の紅葉にカンゲキして宝筐院を出てから、ぶらり嵯峨野路を散策、化野(あだしの)念仏寺に辿り着いた。

    化野念仏寺


    空海(弘法大師)が五智山如来寺を建て野ざらしの遺骸を埋葬。のち法然が念仏道場としてから今の寺名に改めた。本堂は1711年(正徳2)寂道上人の再建。境内8,000体の石仏・石塔群は、化野に葬られた人たちの墓で、毎年8月23・24日に灯明をあげ、幽玄な千灯供養を行う。浄土宗。
    (念仏寺HPより)
    もう50年以上前に来たことがあった、辺りの様子は変わっただろうに、まるっきり覚えてない、その頃は石柱の垣根なんか無かったし拝観料など要らなかった。
    今はしっかり払いました。




















    本尊 阿彌陀沸:鎌倉時代
    伝:湛慶作

    そろそろ、お昼な時間、念仏寺を出てちょっと歩いたところに.泉仙がありました。
    何年前になるかな?次男と一緒に大徳寺・大慈院・泉仙(こちら)の鉄鉢精進料理を賞味したことがありました。
    「ここの場所で泉仙の鉄鉢精進料理を味わえる?」思わず中に入りました。





    鉄鉢とは、僧侶が托鉢(たくはつ)で食物などを受けるのに用いる器のことです。大小の鉄鉢で出てくる料理を頂いた後は、鉄鉢を重ねることでコンパクトに一つに収まります。
    美味しくいただきましたのは言うまでもないこと。
    ぶらぶら歩いて嵐山の方へ、まぁ~~な・ん・と、休日の心斎橋を歩いてるみたい、人が多い。
    「そらな、京都は観光都市なんやしぃ、どこ行っても空(す)いてたらカンジでぇへんやんか」と、思うわんちゃんなんですが・・・


    渡月橋の向こうに見える嵐山はキレイでした。



    0 0

    もう、今の時季になると木々の葉っぱは地面に落ちて虫たちの良い休息場所になっているのかな?



    11月25日に光台遊歩道の紅葉だよりいただいて、次週日曜日(12月2日)のグラウンドゴルフの練習後に光台遊歩道から精華大通り歩いてきました。


    黄・紅・緑のグラデーションが見事・・・




    スマホで、カシャカシャカシャ、撮りまくり・・・
     

     


    ドウダンツツジ

      

    少しだけ散り残りの真っ赤な葉っぱの木は?実も付いてます。

    モミジバフウ(別名:アメリカフウ)

    ホトトギス
     

    民家の庭に皇帝ダリア

    このお花はホンマに青空がよう似合いますなぁ
    精華大通りに出るとメタセコイアがキレイ・・・


    精華大通りのメタセコイア=こちら

    ここで、コーナン辺りまで歩いてUターン、東光小学校へ。
    愛車がお待ちかね・・・


    0 0
  • 12/15/18--22:17: いわさきちひろ
  • いわさきちひろ:画家で絵本作家
    1918年(大正7年)12月15日福井県越前市生まれ 今年生誕100年 
    いわさきちひろの絵は、とってもやわらくて、決して主張するタッチや無いねんけど、どっか印象に残る作風・・・子供たちを描いた水彩画、ホンマに癒されます。そんなとこがダイスキなわんちゃんです。
    東京と安曇野に「いわさきちひろ美術館」があります。

    わんちゃんの周りにも、いわさきちひろファン多いです、色とりどりでお母さんの優しさっというのがイメージされるホンマにそんな絵。
    わんちゃん的には東京か長野ッとばっかり思ってました、福井県出身やったんや。
    お父さまは陸軍築城部建築技師、お母さまは女学校の教師。彼女には二人の妹が居ます。
    一家はその後東京に引っ越しますが、ちひろが見当たらない時は地面に描かれた絵をたどっていくと必ず見つかったと言われていました(小さいころから絵がダイスキやったんやなぁ)
    小学校入学前に児童雑誌「こどものくに」に描かれた大きな満月と月見草を見て「いつか自分もこんな絵を描きたい」っと、思ったそうです。(自分の未来を予言していそうなカンジ)
    しかし、現実はそう甘くはなかったみたい・・・
    女学校時代はスキーや登山も楽しみ14歳で洋画家・岡田三郎助の画塾に通い本格的に絵を学び始め、17歳になると洋画展で入選するようになり、当然女学校を卒業後は画家になりっと自分では思っていたそうです。しかし当時は女性の幸せとは結婚することでした。なので、三姉妹の長女であるちひろは養子をとって家を継がなければならない・・・
    結局、二十歳の時婿養子を迎え結婚、夫の赴任先である大連へ赴きました、ところがこの結婚はわずか2年で・・・離婚? いえいえ、夫が自殺。
    何があったんでしょう?夫婦間のことはうかがい知ることはできないけど、ただ、ちひろは「夫のことは愛することができず、そばに寄ってきても鳥肌が立つ」っと妹たちには話していたそう。
    なんか辛いハナシやなぁ・・・そやかて、パートナーを亡くすっちゅうんは寂しかったやろなぁ、ショッキングなこと。
    1941年22歳のちひろは夫の遺骨を抱いて一人帰国します。時代が戦争へと進む中、彼女は書道教師として再び中国へ渡ります、しかし戦局が悪化し帰国。1945年5月東京で空襲に遭い、家も大切にしていた絵本も描き溜めた絵も、そして可愛がっていた猫も一瞬にして失ってしまいます。
    8月疎開先の松本で終戦を迎えました。
    終戦後東京に戻ったちひろは、日本共産党宣伝部芸術学校に入ります。
    1947年28歳で『紙芝居・おかあさんのはなし』を描き画家として生きていくことを誓います。
    同じころ彼女は一人の男性と出会います。
    7歳年下の松本善明「僕は世の中で一番苦しい人たちと一緒に歩いて行こうと決めたんです」と言う言葉に心を打たれ結婚。司法試験合格を目指す夫を経済的に支えました。
    さらに1951年には長男も誕生。家事と育児だけやなく、一家を支える大黒柱でもあるちひろの負担は相当なモンやった。結局生後間もない長男を長野県に暮らす両親に預けています。それでも時間を見つけて長野に通い愛する我が子との時間を過ごしたちひろは10ケ月と1歳の赤ん坊をモデル無しでも描き分けることができたそう⇒わずかな成長も見逃さない、それだけ子供の成長した姿を脳裏に焼き付けていた。
    子供と過ごす時間は「長さ」ではなく「密度」かもしれない(ホンマやわ)
    やっと、夫・善明は司法試験に合格し1952年夫婦は東京上石神井(かみしゃくじい)に居を構える。
    この場所が現在の『ちひろ美術館・東京』⇒こちら

    弁護士になった夫は1967年に衆議院議員に、ちひろは絵本作家として忙しい毎日を過ごしていた。
    そんな時、ベトナム戦争が勃発します。戦争で亡くなっていく子供たちに心を痛めたちひろは1972年『戦火のなかの子どもたち』の制作をスタートしますが、彼女自身が病に倒れてしまいます(心身ともにムリがたたったんやなぁ)
    それでも、絵筆を持ち1973年絵本を出版。



    翌1974年55歳の若さでこの世を去っています。
    『戦火のなかの子どもたち』におさめられている「ほむらの中の母と子」は彼女が描いた作品の中でも唯一と言われる怖い顔をした母親が描かれている。



    『戦火のなかの子どもたち』きっと自身の戦争体験が大きく影響しているのでしょう。
    戦争への怒り、平和への願いがこもった一冊、わんちゃんの手元にあります、ぜひぜひ皆さんにも読んで欲しいと思います。
    ここで、わんちゃん的には『ちひろ美術館』に行ってみたく考えてます。
    ♪は~る~まだ浅い~ 信濃路へ~~♪
    ⇒こちら

    なので、行くなら『ちひろ美術館・長野』でしょうか・・・それも春に。
    ちなみに♪8時ちょうどの あずさ2号で♪は現存しません。

    黒柳徹子さんの『窓ぎわのトットちゃん』挿絵はちひろさん

    部屋の本棚に並んでます。



older | 1 | .... | 20 | 21 | (Page 22)